浅草観音うらとは

『浅草観音うら』とは、「浅草寺 観音様のうら手」、言問通りより北側(浅草三丁目・浅草四丁目・浅草五丁目)に位置する地域です。

南側にある「雷門」「仲見世」は言わば”表玄関”、世界各国から訪れる観光客で大きな賑わいを見せていますが、観音様を抜けて言問通りを渡った”浅草観音うら”は知る人ぞ知るエリア。
浅草花柳界の伝統ある格式の街並み、老舗の店舗だけでなく、粋な人やこだわりの新しい店舗が点在し、同じ浅草とは思えないほど落ち着いた江戸の下町情緒を随所に感じることができます。

毎年五月・六月、お祭りの時期だけは、その表情をガラッと変えます。
江戸の大祭「三社祭」や、400年の歴史を誇る「お富士さんの植木市」(5月6月の最終土曜・日曜の4日間)では街中が多くの人出、大きな賑わいになります。
祭事の際は「またぎ提灯」が柳通り・富士通りを彩り、江戸の下町情緒をより一層感じさせます。

現在の浅草観音うらの地名は「浅草三丁目」「浅草四丁目」「浅草五丁目」ですが、その昔は「浅草象潟町(あさくさきさかたまち)」と名付けられていました。
「象潟」とは、江戸時代に本荘藩主であった六郷氏が浅草に下屋敷を設けたとき、領内(現在の秋田県)にあった八十八潟、九十九島(やそはちがた、つくもしま)の景勝地として天下に美景を誇る『象潟』よりとってつけられたと言われ、昭和43年まで、浅草象潟一丁目~三丁目という地名がありました。
住居表示変更により「象潟」の名はなくなってしまいますが、町会名は今もなお「浅草象潟(あさくさきさかた)」「浅草象一(あさくさきさいち)」「浅草象三(あさくさきささん)」として残し、地元の人々がその歴史を引き継いでいます。

浅草観音うらの歴史

1677年(延宝5年)頃
水田地帯であった観音うら地域に、「本庄藩主六郷邸」が建築された。
1872年(明治5年)
六郷氏の領国(現在の秋田県)にあった八十八潟九十九島(やそはちがたつくもしま)の景勝の地『象潟』より、この地名をとって『浅草象潟町』と名付けられた。
1885年(明治18年)
浅草寺門前の広小路、猿若町、堀の芸妓衆が集まり、現在の浅草芸者と東京浅草組合(浅草見番)の母体となる公園芸妓が生まれる。
1890年(明治26年)
警視庁第5方面第4署が田原町より富士公園の一角に移転し、浅草象潟警察となる。
1896年(明治29年)
料理店・料理屋ごとにあった見番をまとめた公園見番ができる。
1924年(大正13年)
浅草象潟町会設立。
*初代町町会長 福島伊三郎氏
1934年(昭和9年)
浅草象潟一~三丁目の起立に伴い、浅草象潟町が分割される。
1946年(昭和21年)
浅草象潟警察署から浅草警察署へ名称変更。
1966年(昭和41年)
住居表示の実施により、浅草三~五丁目に編入となり象潟町名がなくなる。
*「浅草象潟」「浅草象一」「浅草象三」の町会名は存続。
1993年(平成5年)
「秋田県象潟町」と象潟町会を含む「浅草馬道地区町会連合会」との間で「姉妹地」の盟約を締結。
2014年(平成26年)
一般社団法人「お富士さんの植木市保存会」発足。
2017年(平成29年)
「浅草観音うら振興会」設立。

浅草観音うら振興会 役員一覧

浅草観音うら振興会では、『浅草観音うら』をもっと身近に親しんで頂こうと、歴史・伝統ある地域文化を守りながら新たな情報を発信し、昔ながらの活気あふれる姿で次世代へ繋いでいきたいという想いで活動しております。

会長
前田 行男
副会長
岩本 雅男
副会長
市村 喜一
副会長
斎藤 泰光
副会長
藤野 吉正
副会長
永井 健一
副会長
田中 博登
副会長
宮崎 親夫
副会長
和田 泰昌
会計
那須野 邦人
会計
森田 逸夫
監事
船亦 功
監事
小川 佳男